性的マイノリティとキリスト教

トランスジェンダーとキリスト教


元末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)のメンバーです。離脱してから、まもなく2年になります。離脱の経緯はまた改めて書くことにさせて頂いて、キリスト教がトランスジェンダーを含む性的マイノリティをどう受け止めるか皆様にお尋ねしたいと思っています。


宮崎県に住むセクシャルマイノリティの居場所である、レインボービュー宮崎についてシェアします。ぜひご覧下さい。

https://m.facebook.com/RainbowViewMiyazaki/


わたしはトランスジェンダー(MtoF)です。そしてごくたまに教会に顔を出す程度の信仰しかないものです。しかし、どんなにみすぼらしい信仰でも、聖書を読めば、セクシャルマイノリティが否定されていることくらい分かります。キリスト教の中で、自分が常に教義的に否定されていることの意味がおわかりですか?そして、常に罪人であるという意識を持ちながら生きることの意味がおわかりですか?そのように生まれたから罪人であると決めつけられることの意味がわかりますか?

汚れているものとして、排除される気持ちがわかりますか?

「わたしは汚れています。汚れています」と叫ばなければならなかった人々が聖書に登場します。当時不治の病と言われ、かつ重い罪の結果の病と言われ、深刻に差別されました。ともに同じ神を信じているのに、です。

現在でも、出自、特定国の出身、貧困、性別、精神疾患、AIDS、ハラスメント...ありとあらゆる差別が存在し、私たちは意識的無意識に幾重にも渡る差別をおこなってしまいがちです。キリスト者がそういう差別と無関係でいられるはずがないという事に思いを致せてもらえたらと思います。


セクシャルマイノリティは病気でも「嗜好」でもありません。(性同一性障害はWHOの決定により病理の対象から外され、日本でもその決定に従うことがつい先日決定されました。現在は「性別不合」という言い方になっています)

さらに言えば魂の病気でも罪でもありません。そのようなどうしようもなく自分に備わっていることを、神が断罪され、神に代わって教会が同じ神の子である私たちを断罪する権能があるとは到底認めることができません。そのことを理解していただければ幸いです。


なお、LGBTQ+についてご興味やご質問、ご意見などありましたら、メッセンジャーを通し直接わたしにご連絡いただければ幸いですです。

性同一性障害から性別不合へ

トランスジェンダーは精神的にも肉体的にも病気ではありません。不当な差別を受けることから解消されることを心から望みます。また、性別を変更するために断種手術を適用条件とすることは、人権侵害であるとの欧州裁判所の決定に各国が倣うことを切に訴えます。


5月29日NHKおはよう日本報道から


WHO「社会に強いサイン」

「性同一性障害」を精神障害の分類から除外することで合意したことについて、WHOで「国際疾病分類」を担当するロバート・ヤコブ氏は「性同一性障害は精神的な病気でも身体的な病気でもないとわれわれが考えるようになることは、社会にとって強いサインになるだろう」と述べ、その意義を強調しました。

そして、「障害という項目から外すことによって、これからは『性別不合』と呼ばれる人たちがこれまで着せられてきた汚名を返上することにつながる」と述べ、今回の変更によって、これまで「性同一性障害」の人たちが受けてきた差別が解消されることに期待を示しました。(記事の一部を引用しました)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190526/k10011929571000.html

LGBTQ+について

LGBTQ+という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。しかし、その上でクリスチャンというわたしのような存在はあまり聞いたことは無いと思います。キリスト教が支配的な国々では、このキリスト教とLGBTQ+の問題は社会問題にもなっています。キリスト教の教え自体が同性愛やトランスジェンダーの存在を認めないからです。

わたしは、かつてキリスト教の一宗派に属していましたが離脱しました。むしろ追放されたというのが正しいのかもしれません。わたしがトランスジェンダーであることが理由です。わたしは男性として生まれ女性として生活しています。

神は普遍的な愛を持っていると信じるわたしを神は愛して下さらないとキリスト教指導者から告げられました。わたしはなお信仰を持ち続けたいと思っているのですが、性的マイノリティを(真に)受け入れる教会はないのではないかと感じています。

棄教するのが一番良いのかもしれませんが、40年にわたって曲りなりにもクリスチャンとして過ごした経験はそう簡単に棄てきることができません。どこかにどんな人でも受け入れる教会があるのではないかと希望をまだ持っていたいのです。